母の最期

父の死後急速に母は己を閉ざした
何も話さなくなりじっと何かに耐えているようだった
そのうち徘徊がひどくなり、母は施設に入れられた

訪れるたびに母は
お世話になります。立派に育って下さってお有難うございます。
と、繰り返すばかりであった
母と知っている限りの歌を次々と歌い
会話にならぬ会話を続けた


時が過ぎ、帰る時間が容赦なくやってきた
トイレに行ってくるね。といいながら消える事もあった
なんと罪作りをしたことだろう
母に昼寝を勧め、二人で蒲団にもぐった事もあった
母も私もただ涙を流すばかりだった




最後の夜


母の息を引き取る前夜
私がついていた
相変わらず、熱も高く、呼吸も荒いのに
何本もついていたチューブが抜き取られ
無知な私は、母が快方に向かったと喜んだ


人工的に生かされた状態が3ヶ月近く続いた
折り鶴が毎日毎日病室に飛び
花々で部屋が明るく彩られ
母の好きな子供の祈りの絵が掲げられ
何としても母に留まって欲しいと
娘たちの祈りが続いた


それでも、今日が最後かと、息詰まる時間が過ぎて行った
勤めが終ると3時間の道のりを走っては見舞った


良かったね。こんなに管が外されたのだから良くなったんだね
私は本気に喜んだ

夜中の2時頃、母が目を開いた
じっと私を見た。諭す目だった
私は嬉しくて、話しかけた
母は何も言わずにじっと私の目をまっすぐ見ていた

ただならぬ気配を感じ
朝五時になるのを待って兄に電話した
母さん逝ってしまうよ


あの時の母の目を今も感ずる
母は私に何を伝えたかったのだろうか

12月26日病院が手薄になる暮
何故か管が外され、母は逝った

桜餅

粟生津の姑は桜餅が好きだった
今日は舅の命日
大菊と小菊、ピンクの優しいカーネーションを上げ
桜餅を備えて檀家寺の住職を待つ
毎月、6日を迎える為に念入りに部屋を清め
心優しい夫は、両親を偲ぶ
舅がそうだったように



古からの大河の1滴
清流に流れるも、濁ったよどみに留まるも
流れ、大海に至り、又天に上り


私も65才
大海に至り深海に沈んでいくのか
水蒸気と化し天に昇っていけるのか

必死に邪念をそぎ落とす
そんな時間を迎えたようだ

母の青春

 東京の空の下で母は青春を過している
明治42年生まれの母が、女学校を出て、進学を希望したが、親に反対されたが、それを押し切って上京した
 何でも、母は女学校当時、雑誌を取ってい、そこに投稿をして、都会に憧れていたと言う話しを聞いた。何と言う雑誌か聞いていない。
 新井の辺ぴな堀の内という小さな部落の少女が単身上京したというのだからすごい話しだ
大正の後半にかかると思う。
 
 上京して部屋を借り、昼間は後楽園の掃除婦、夜は仕立物をしてお金をためたそうである。
そして竹早教員養成所という学校に入り、教員免許を取得。その頃セツルメントという活動が流行っていて、母は善隣館という孤児の施設に奉職している


もっと詳しく聞いておけば良かったと残念である。

朝はどこから

朝は何処からくるかしら


父も母も音楽好きでしたからたちまち我が家はみんなで歌を歌いました
2番目と3番目の姉が合唱部に所属していたので
9人家族でよくハモッていました
次々とレパートリーはふえました。


1月3日は父の誕生日。我が家の最大のイベントです
お祝いにみんなで歌をプレゼントしました。
いつの間に法事や、祝い事があるたびに
兄弟の合唱がつき物になりました。


父の飲み友達が来ると必ずリクエストされたものです。
朝は何処から来るかしら
友情の歌。緑のそよ風。竹取物語
沢山のレパートリーがうまれました



父が亡くなったのはやはり雪の深い1月19日
通夜の晩、読経のあと父との別れが辛く
みんなでずっと歌い続けたものです。
深々と雪の降る晩でした。